| 自分の価値 |
自分の評価、と言い換えてもいいでしょう。
それは「誰」が決めるものでしょうか。 自分自身で「自分はすばらしい人間だ」と勝手に決めることができるものではありません。 他人が自分を見て、そしてどういう人間かを判定して評価・価値をすることによって決まるものです。
では他人が「決める」ものでしょうか。 すぐ上の文で書きましたが、「決まるものです」という表現を使ってます。 他人が決める、とは書いていません。
じゃあ誰が「決める」んだ、ということになりますね。 それは「自分が決める」のです。
最初に書いたことと矛盾するのではないかと思われる方もいるでしょう。 初めに書いたのは「自己判断で決めることはできない」ということです。 今書いているのは「自分の言動が評価を決めることとなる」という意味です。
他人が判断材料とするのは「自分の言動」です。 どういう人間なのかを観察して、その上で判断するわけですので、「自分がどのような言動」をするかによって「他人の判断に影響を及ぼす」こととなるわけです。 自分が他人から見て信頼に足る言動を繰り返していれば、他人から信頼されることとなりますが、普段からいいかげんなことばかりしていては他人から評価を得ることはできません。
自分がどのような言動を取るのかを決定するのは「自分の意思」によってです。 「自分の意思」によって取った言動が「自分の価値を決める」こととなるわけです。
いくらすばらしい自己評価を主張しても、言動がそれに見合っていなければ他人から評価を受けることはできません。 自分では評価を受けるようなことはしていないと謙遜していても、その言動を見ている他人からは高い評価を受ける人もいます。
「自分の価値は自分で決める」
いろんな堪えられ方をする言葉ですが、このような考え方もあるんじゃないでしょうか。
蛇足: 自分の価値は自分自身で判断して決定するものだ、というとらえ方をする人がいます。 こういう人は他人の評価を受け入れることができないことがあります。 自分の行った自己評価と他人の評価とのギャップが大きすぎて受け入れることができないうえに、自分は正しいという意識があるために結果として「他人が間違っている」という考えになりがちです。 なぜ正しい自分の考えが受け入れられず、他人から非難されなければならないのか、という状況に陥ってしまいます。
こうなってしまったら「不幸」の一言です。 他人の意見を受け入れることができないために、改善のきっかけとなる他人からの働きかけを拒否してしまいますので、いつまでたっても状況が改善できません。 自分で自分の成長を止めてしまっていることになってしまいます。
このようなことにならないためには、たとえとてもいやな相手であっても、どんなに耳の痛いことであっても、他人の意見は一回は自分の中に取り込み、その上で咀嚼して、最後に受け入れるのかどうするのかを決める、ということが重要になるのでしょう。
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| できること |
岡山の事件の親の記事を読んで。
>心の底まで見抜けなかった 他人に心の底を見通すことは非常に困難なことです。 感情をすぐに表すような「切れやすい」相手なら比較的見通しやすいですが、ちょっと考えが回る相手だったら内心を隠して相手に読まれないようにすることができることでしょう。 「いじめられっ子」であるならば、いじめっ子に内心を読まれないようにするために、常に内心を各指標上に出さないようにする努力を繰り返していますので、そんな人間の心を見抜くことはさらに困難だと言えるでしょう。
この人は自分のこのことをほったらかしにしていたわけでもなく、関係を強めようと努力されていたことがうかがわれます。 それでも心を通じ合わせることができなかったようです。 自分に同じことが起きないという保証は全くありません。 努力しているつもりが空回りしているだけかも知れません。 自分にできることには限界があるのは事実です。
100%の保証なんて誰にもできません。 だからといって何もしないという気にもなれません。 自分にできることを最大限やる、それしか思いつきません。
自分にも「親の事情で自分の夢をあきらめさせられた」という経験があります。 その時のことは今でも夢に見るんです。 いつものことですが、「夢を叶えようとしてかなえられない」んです。 夢の中なのに「かなえられない」んですよね。 何十年経った今でもその夢を見ることがあります。 そして起きた後に憂鬱な気分にさせられます。 それだけ強く辛い記憶なんだということを自分自身に思い知らされています。
今強く思うのは、自分の子供には同じ思いをさせたくない、ということです。 といっても、なんでもかなえてやれるだけの力が自分にあるわけではありません。 無茶はできませんが、自分のことは多少犠牲にしてでも子供のために自分の最大限のサポートをしてやりたいと思っています。
蛇足: 未成年者の起こした事件がニュースになったとしても、その子の親が出てくることが少ないですね。 そんな中、前に出て会見を行ったことに対して敬意を表したいと思います。 その責任を果たそうとしている姿勢に対して。
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| しつけについての雑感 |
しつけってなんなんでしょう。 わがままを言わない、親の言うことを素直に聞く「いい子」になるように仕向けることなのか。 ニュースに出てくる「しつけのつもり」という言葉を聞くたびに考えさせられます。
そもそも「なんのために」しつけるのでしょう。 しつけとはなんのために行うのでしょう。
今の世の中、自分一人で生きてゆくことはほとんど不可能となっています。 人間社会の中で、他の人間と一緒に生きてゆくことになります。 当然のことながら、そこには「他人との関係」が生じますから、そこで旨くやって行けるかどうか、ということが問題となります。 しつけとは、人間社会の中で生きてゆくために身につけておくべき「常識・マナー・エチケット・等々」他人との関係を良好に保つための「知識」と「考える力」を身につけさせることではないかと考えています。
小さい子供は「自分の感情のまま」に自分のやりたいことだけをしたがり、自分のしたくないことをやりたがりません。 この状態のままで成長したとすれば、他人とぶつかることは目に見えています。 自分の主張だけを押し通し、他人の言うことを全く聞かなければどんな悲惨なことになるのか、という事例も現実に存在します。 そうならないように、小さいときに「しつけ」ることが大切になるということでしょう。
但し、現実にしつけることは非常に難しいことのように思われます。 どうするのが「正しいしつけ方」なのかっていうことはわかりません。 わからないながらも気をつけていることはあります。 それは「なぜ」という部分です。
何かをさせようとするとき、何かをやめさせようとするとき、単に「しなさい・やめなさい」だけで済ませて「親の考えをそのまま押しつける」ということはできるだけ避けています。 なぜそのことをするのか、なぜそのことをしてはいけないのか、できるだけ簡単な言葉で説明するように気をつけています。 そして「子供自身が自分で考える」ように持ってゆくようにも心がけているつもりです。 その時にどれだけ理解しているかはわかりませんし、どれだけ覚えているのかもわかりません。 それでも繰り返しているうちに徐々に理解し、また自分で考える力を身につけてくれるものと期待しています。
単に「これはOK・これはダメ」という教え方しかしなかった場合、全く同じ場面であれば適切に対応できるけれど、ちょっと「パターンが異なれば」対応できない、という応用力のない人間になってしまう恐れがあります。 「こういう理由でこれはOK」という教え方をしてゆけば、どんなパターンであっても、「その場で考え」て、「適切だと思われる行動」を「自分で見つけ出す」ということが可能となります。 100%その場にあった対応を行えるという保証にはなりませんが、とんでもない対応をしてしまう危険性というのはかなり減らせるものと考えます。
たとえは悪いですが、しつけの手段自体は「誉めたり、叱ったり、餌をぶら下げたり、お仕置きしたり」で動物のしつけと同じだと言えます。 ただそれだけで終わらせるのではなく、子供が理解できるよう、納得できるように、しっかり話をすること、それが子供のしつけに大切だと考えています。
幸せなことに、うちの両親も嫁さんの両親も、子供にきちんと向き合ってちゃんと「話をして」くれています。 おそらく自分が小さいとき、嫁さんが小さいときにも同じようにしつけてくれていたんだろうと思います。
今の自分に問題がないとはいいませんが、まあ「間違った人間」にはなっていないつもりです。 ですから、これから自分たちがしつける子供も、将来問題がないとは言えないがまあまともな人間、になるんじゃないかって思っています。
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| 理解できないこと |
asahi.comに次のような記事がありました。 「バンジー」と称し、乳児を床に落とす 奈良の虐待事件
生後4ヶ月の子供の足を持って逆さづりにし、そのまま手を離して床にたたきつけるという行為を「バンジー」と称して「父母」が何度も実行していた、と言うことです。 なお、4ヶ月目に虐待が発覚したということであり、虐待が始まったのは生後1ヶ月頃からだそうです。
4ヶ月といえば、まだ頭の骨も固まっていませんし、頭蓋骨内の脳も揺れやすいため、揺することも避けるように注意されている時期です。 そんな時期に頭に強い衝撃を与えると脳が物理的に破損することは容易に予想されます。 文字通り、打ち所が悪かったら死亡する、というような危険な行為です。
さらに、乳児の首が据わるのは平均して3から4ヶ月頃といわれています。 それまでの乳児は起こそうとしても首がだらーんと横に倒れ、まっすぐにしておくには支えが必要な状態です。 首の骨も首の筋肉も未発達ですので、頭に横向きに力が加わるとそれがそのまま首への力となり、頸椎に強い力が働くこととなります。 頭から落とすということは、首を折る危険性もあったということです。
それ以前の問題として、身体の昨日が未発達な乳児を逆さづりにするという行為そのものが危険と言えます。 頭蓋骨内で出血が起こり、出血した血液によって脳が圧迫され、障害が生じるということも十分に考えられる危険な行為です。
容疑者は「双子はいらなかった」と話しているようです。 死んだらいいのに、と思っての行為ではなかったのかと思わされるコメントです。 少なくとも「死ぬかも知れない」ということは認識していたはずですし、「死んでもかまわない」と結果を容認する気持ちもあったと推測されます。 刑事裁判上「故意」(殺意)を持って、「殺害行為」を実行したこととなります。 裁かれる罪名は「殺人罪」または「殺人未遂罪」となるでしょう。
子供は意識不明の重体で、肋骨の骨折は11本とのことです。 肋骨は12対24本あります。 そのうちのほぼ半分が骨折していたということです。 これだけの結果が生じるまでにはどれだけの虐待が加えられたのでしょう。
子供がうるさいから(しつけのつもりで)殴った等という記事なら、今までにも何度もありました。 虐待という点では同じとも言えますが、今回の事件は、根底にある意識が全く異なります。 今回の事件は「殺すつもりで殺した」という殺人事件です。
家から子供の声が聞こえなかったということから、ミルクもまともに与えられておらず、泣く力すらなかったのではないかとも思われます。 この子はなんのために生まれてきたのでしょう。 生まれてすぐに親から虐待され続け、たった4ヶ月で命を失うかもしれない。 かわいそうという言葉では表しきれません。
さらに気が滅入るのは、おそらくこの事件は「氷山の一角」でしかないんだ、ということが否定できないということです。
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| ライト |
ライトってなんのために点けるんでしょう。
今日の借り道、ちょっと寄らなくてはいけないところがあったので、結局30分くらい歩いて家まで帰ることになったんです。 用事を済ませてからしばらくはバス通りを歩いていたんですが、自転車が結構走っていました。
既に日は沈んで街灯がつき、人影が見づらくなった時間帯のことです。 バス通りにはガードレールがついていて車道と歩道部分とに分けられているんですが、自転車は歩道部分を結構なスピードで走ってゆきます。 乗っているのは学生等ではなくて「お母さん」、そしてそれを必死で追いかけるちびたち。
どこかへ行ってきた帰りなのか、これから行くのかはわかりませんが、親は前だけを見て走って行きますので、子供のことが見えていません。 子供は親の背中を追いかけることだけで精一杯出回りが見えていません。
そして、そのほとんど全てが無灯火なんです。
車道側を走って車に轢かれる危険はないかも知れませんが、歩道側には電柱もありますし、通行人もいます。 前を行く親はまだ前が(たぶん)が見えていて避けることができるでしょうけど、子供はいきなり親が横にズレ、前に何かがあったら避けることができるんだろうか、と心配になります。 相手に突っ込んで怪我をさせる危険性もありますし、自分が転けて怪我をすることも考えられます。
最近では携帯を見ながら「前を見ずに歩く人」も増えていますから、「ぶつかる危険性」は昔に比べて高くなっています。 そんな状態にもかかわらず、無灯火で走るという神経が理解できません。 親は、自分は見えているから大丈夫、という意識なんでしょう。 電気を点けると「重たくなるからイヤ」という意識があるのかも知れません。 しかしそれは、「生命身体の危険性」と引き替えにできるようなものでしょうか。
ライトは自分の走っていく前方を照らして、自分の視界を確保し、危険を避けるという目的があります。 それと同時に、「自分の存在をアピール」して「人に注意を喚起する」という目的もあります。
暗い夜道に前方で何か光が動けば、非常に目立ちますので、人はそれに注意を払います。 直前に迫ってから初めて気づくのとでは危険度が格段に異なります。 少しでも早く気づけばそれを避けるための時間の余裕ができ、危険を余裕を持って避けることができますが、直前で気づいた場合には、避けようにも避けられずにぶつかるというのは「どこの世界」でも同じことです。
自分が自転車に乗って通勤していた頃は、必ずライトを点けていました。 しかも乾電池4本直列でハロゲンランプ搭載という「懐中電灯の強力なもの」と同じレベルのモノです。 それを直前の地面ではなく、結構前方の地面に向けて照射していました。 直前の地面を照らしてしまうとそこだけが明るくなって遠方が見づらくなりますし、まっすぐ前を向けると、ハイビームと同じで対抗者をまぶしがらせてしまいますから、やや下向け、としていました。 電池は消耗しますが、おかげさまで事故に遭うこともなく、今に至っています。
今、娘はまだ三輪車も十分にこぐことができません。 ですが、わざわざライトを買ってきて付けてやりました。 手回し式の発電ライトなので、半分おもちゃがわりです。
そして、帰り道多少暗くなってきたときは点灯させるようにしています。 三輪車をゆっくり押しているのは自分ですから、ぶつかって行く心配はまずありません。 ですが、「誰かが突っ込んでくる」心配はどにも転がっています。 通い慣れた道ではありますが、中学・高校生などが曲がり角を「アウトインアウト」でスピードを落とさずに走っているのをよく見ていますし、危険があることが十分に予想されています。
今はまだ自分が気をつけて避けさせることができていますが、もう少しすれば自分で三輪車を自由に漕げるようにもなるでしょうし、いずれは自転車にも乗れるようになるでしょう。 そうなったときに、「暗くなったらライトを点灯する」ということを「当然のこと」として身につけて欲しいという気持ちがあります。
自分が事故を起こさないよう注意するのは当然のことです。 それと共に他人から事故をもらわないようにすることも大切だと考えます。 そのために自分ができることがあるのであれば、それはしておくほうがいいといえるでしょう。
今日一日だけでも、何台かの自転車に突っ込んでこられました。 自分が避けなければぶつかっていたであろうケースもいくつかありました。 もしぶつかっていたらどうなっていたのだろうか。 「ぶつかってきた子供」の親は、どうするのだろうか。 今はいやな気持ちになりそうな展開しか頭に浮かびません。
どうも「想像力」の欠如している大人(親)がが増えてしまっているように思われます。 その中で、どうやれば自分を娘を守れるのだろうか。 そんなことを考えてしまいます。
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